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江戸時代に自費で堤防を築いた偉人がいた

 目次

自然災害が多い

近年、大規模な自然災害が日本各地で多く起きています。

自然災害は、台風などによる風水害、火山活動による地震、降灰などの他、長雨による災害、雹・霜・降雪、逆に日照りなど、とあげたらきりがないくらい、毎年発生しています。

昨年10月の台風19号では、かすかべの市域でも冠水した所がありました。

今年もまたこのようなことが起きるのか、今から台風シーズンが心配です。

今回は、江戸時代、粕壁宿の名主として、災害対策の中心的な役割を果たしたとされる郷土の偉人「見川喜蔵(みかわ・きぞう)を紹介します。

度重なる洪水

江戸時代には、自然災害、特に水害が多かったと言われています。

当粕壁宿でも南北に流れる古利根川の度重なる氾濫でしばしば水害に見舞われました。これは舟運に重きを置いた河川改修や無理な新田開発の代償では、との指摘もあります。

実際、徳川幕府は家康の関東入国以来、江戸町民の食料調達のため、武蔵国の新田開発や治水対策に力を注いできました。

江戸時代の初め、幕府は利根川、荒川を改修し、そして荒川は江戸湾に、利根川は銚子に注ぐようになりました。

かすかべの市域は、元の利根川(古利根川)が南北に貫流し、その旧河道として古隅田川が東西に流れています。また、古利根川に平行するように庄内古川が南北に、さらに、その支川として農業用排水路の倉松落があります。

このような地形にある当地は、元来、低湿地であったため、度重なる洪水により耕地は流失して不毛の地となり、農民たちはたちまち貧窮に陥りました。

また、当時は、豊作と凶作は天恵によるものと信じられており、豊作の年は浮かれていましたが、ひと度凶作となるとろくに貯えもないのでたちまち貧窮し、労働意欲を失い、挙げ句の果てには路頭に迷うも人も。

そのため、当時の名主も年貢の取り立てには大変苦労しました。また、飢えた人々による打ちこわしなどもたびたび発生し、幕府の政策を混乱させる一因にもなりました。

見川喜蔵

今から230年ほど前、天明三年(1783)6月17日の大雨で田の冠水被害が発生、さらに、追い打ちをかけるように、翌七月、浅間山が噴火、風下に当たる当地では、降灰で市域の田畑が埋もれるなど、大きな被害に見舞われました。

さらに、利根川などでは、上流から流出した噴出物の堆積で河床が急激に上がり、洪水を引き起こしました。

このような降灰、洪水さらには日照不足などで、農作物は壊滅的な打撃を受け凶作となり、以後、慢性的な食料不足が続き、多くの人々が飢えで苦しみました。世に言う「天明の飢饉」です。もちろん当かすかべもその例外でありませんでした。

このような状況を憂い、困窮する民を助けるべく奔走したのが粕壁宿の名主見川喜蔵(みかわ・きぞう)です。

喜蔵は、粕壁宿内の裕福な地主らを説き、雑穀を放出させ、困窮する人々に粥にして与え、その窮状を救ったと伝えられています。

築造費を自費で賄う

また、喜蔵は、宿内の耕地を調査し、水害を防ぐために古利根川べりと古隅田川沿岸の堤防を高くすることを考え、私財を投じて自費で長さ約千㍍の堤を古利根川べりに築きました。今の為政者では考えられませんね。

更には、寛政三年(1791)八月に起きた洪水の際には、降りしきる雨の中、喜藏自ら宿内を戸毎(こごと)に説いて回り、土俵を作らせ古い堤の上に積ませた、と伝えられています。

これにより、下流域の田畑は、その後の度重なる水害の際にも流失を免れることができました。

このことに、感謝した農民らは、喜蔵の功績について江戸幕府に連署をもって訴え出て、そして、この堤を「喜蔵堤」と名付けました。

なお、この「喜蔵堤」の大きさは、

この堤の大きさは、馬踏(うまぶみ)五尺・法下(のりした)巾(はば)弐間半から四間・高さ六尺以上であった。 (『広報かすかべ・かすかべの歴史余話』昭和52年(1977年)/5月))

と本格的な堤だったそうです。

幕府は、喜蔵の一連の善行を賞し、銀若干を褒賞として与え、一代限りの帯刀と子孫に至るまで終身苗字(見川氏)名乗ることを許しました。 

また、

昭和22年(1947)の「カスリーン台風」による大水害の際には、

この「喜蔵堤」の上に土俵を積み重ねて洪水を防ぎ、粕壁の市街地は、水害を免れた、と言われています(『広報かすかべ・かすかべの歴史余話』昭和52年(1977年)/5月)。

とも。

見川喜蔵が自費で築いた堤は昭和の人々の窮状をも救ったのです。

しかし、その「喜蔵堤」も終戦後の宅地開発などで、何時しか失われ、今はその痕跡すら見ることはできません。

埼玉県ゆかりの偉人

その後、寛政の改革時に、それまで、奇特者、孝行者、忠義者などとして表彰された者について全国的に調査が行われ、見川喜蔵は「奇特者」として顕彰されました。そして『孝義録  武蔵』にその実績が詳細に書かれるなど、長く讃えられました。

現在、『埼玉県ゆかりの偉人データベース』春日部市の項に、

見川喜蔵
粕壁宿の宿役人。諱は知挙。粕壁宿名主の家に生まれ、天明3年(1783)浅間山の噴火による降灰で生活に困り飢えた人々に粥を煮て施したり、宿内の地主を説いて雑穀を提供させた。また、寛政3年(1791)古利根川が決壊したため自費で古堤の上に盛り土をして堤を増築。この堤は喜蔵堤といわれる。(埼玉県ゆかりの偉人データベース)

と記載されています。

なお、毎年暮に酉の市が行われる「粕壁神明神社」や「山中観音堂」などがある神明通りは、見川名主の敷地内にあリましたが、肝心の見川家は当地には見当たりません。

墓所

見川喜蔵は、文化ニ年(1805)10月29日に病没、齢(よわい)66歳。

墓は寺町の成就院にあり、傍らに建つ墓碑にその功績が彫まれています。書家・巻菱湖(まきりょうこ)の書によるこの墓碑は、この地域の災害と防災の歴史を物語る貴重な文化遺産として春日部市の「有形文化財(歴史資料)」に指定されています。

見川喜蔵の墓所がある寺町の成就院。

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成就院大日寺
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門前
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墓所などの説明板

 

「上喜藏河岸」や「喜藏堤」にその名を留める見川喜藏のことは、春日部市民でもご存じの方は少ないと思います。

一度この成就院を訪れて見川喜藏の事績に触れてみても良いかも知れません。

成就院にある墓石・五輪塔、墓碑などについては、後日、改めて書くことにします。

 

 

この記事は昨年11月に公開する予定でしたが、いろいろとありましたので、公開するタイミングを逸しておりました。ようやく少し落ち着きましたので、公開させて頂くことになりました。お読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

*1

 

 

 

 

 

 


 

*1:参考:『春日部市史/第六巻/通史編Ⅰ』『春日部市  昔むかし』『春日部市の文化財』『広報かすかべ・かすかべの歴史余話』

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