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大和文化会・第7回例会
大変遅くなりなりましたが、11月8日(金)開催の「大和文化会・第7回例会」の聴講報告です。今回は珍しく平日の開催でした。
会場の「銀座ブロッサム中央会館」を何気なく見ると、
あれっ!看板が…
台風19号の時、強風で壊れてしまったそうです。
さて、今回は、
演題:「光明皇后―東大寺奉納に秘められた想い―」
講師:京都女子大学 名誉教授 瀧浪貞子(たきなみ・さだこ)先生
講師プロフィール:
1947年生まれ、大阪府出身。1973年京都女子大学大学院修士課程修了。京都女子大学文学部教授。1989年〜1994年NHKテレビ講座「歴史で見る日本」で飛鳥〜平安時代を担当。ご専門は、日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)。
光明皇后は、父・藤原不比等と母・県犬養橘三千代の女子(娘)で、第45代聖武天皇の皇后。光明子、藤三娘とも。
講演のポイント
まずは、光明皇后ゆかりの法華寺のお話しからスタート。
以前撮った写真ですが、
- 聖武天皇は、平城に行幸し、中宮院を御在所とし、光明皇后の宮を宮寺とした。(『続日本紀』天平17年(745年)5月11日条)
- 称徳天皇により宮寺から法華寺へ(『続日本紀』天平神護2年(766年))法華寺=法華罪障消滅之寺
- 法華寺は平城京の東苑に隣接し、光明皇后の父・藤原不比等の邸宅跡であった。
- 法華寺は光明皇后ゆかりの門跡尼寺で、総国分尼寺の位置付け。
- 本尊は十一面観音像(国宝)。
法華寺については、
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法華寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|神社・仏閣|神社・仏閣
聖武天皇のこと
聖武天皇は、紫香楽宮での盧遮那仏の造立が叶わず、東国巡幸を終え、再び平城京へ帰ってきます。紫香楽宮は、NHKの朝ドラ『スカーレット』の舞台、滋賀県甲賀市の甲賀寺付近にあったとされています。
平城京に戻った聖武天皇は、奈良・東大寺で廬舎那仏(大仏)を造立に着手します。しかし、大仏の鍍金(めっき)に用いる金がありませんでした。その後、東国(下野国や陸奥国)で産出され、大仏は無事金色に。金が出たことを寿ぎ「天平勝宝」と改元されました。
体調を崩していた聖武天皇は、天平勝宝元年7月2日(749年8月)娘の阿部内親王(皇太子)に譲位し、聖武太上天皇、そして、光明皇后は光明皇太后に。
その聖武太上天皇は、天平勝宝八歳(756年)5月2日に崩御。光明皇太后は亡夫の七七忌の天平勝宝八歳(756年)6月21日に、聖武太上天皇が生前に寵愛していた品々(約650点)を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献しました。
その目録が、
『東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)』(国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう))
読み下し文(講演会配布レジュメより)
冒頭部分は、
太上天皇(聖武天皇)の御為に国家の珍宝等を捨てて東大寺に入るる願文
皇太后(光明皇后)御製
妾聞く、悠々たる三界(欲会・色界・無色界・一切衆生の全世界)は猛火常に流れ、杳々たる(暗く深い)五道(死者の赴く所、天・人・地獄・餓鬼・畜生の五道)は独網(どくもう)これ盛んなりと・・・以下略
で始まっています。
画像はありませんが、巻末には、
右、件は皆これ先帝(聖武天皇)翫弄(がんろう)の珍、内司供艤のものなり。疇昔(ちゅうせき)を追感して目に触るば崩摧(ほうさい)す。謹んでもって盧舎那仏に献じ奉る。
と、奉献の理由が記されています。
意味は、
「宝物はみな聖武天皇の御遺愛の品です。昔のことを思い出し、目を触れるたびに悲しみで崩れそうになります。謹んで盧遮那仏に奉納します」として、東大寺の盧遮那仏(大仏)に献じます。
と、思い出の品を見る度に亡き夫・聖武天皇のことを思い出し涙が止まらず、崩れんばかり、と書かれています。仲睦まじい夫婦の情愛を感じる一文です。
面白いのは、冒頭の願文に「捨てて・・」との表現です。俗世間から仏界(東大寺)に入れ、一切の思いを絶つという意味なのかも知れません(私の推測です)。
折しも‥‥
天皇御即位記念正倉院特別展
天皇即位を記念して、御即位記念特別展「正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美ー」が、東京国立博物館で開催されていました。(会期は10月14日〜11月24日)
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東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」
種々薬帳
さらに、同時に約60種の薬物も献納されました。当初は、量も多かったそうですが、必要とする人には与えて良いとのことで、徐々に持ち出されて、少なくなっているそうです。
また、後日、追加して奉納されたもの
- 屏風花氈等(びょうぶかせんとうちょう)・・同年7月献納
- 王羲之・献之(けんし)の父子の真跡・・翌年6月献納
- 藤原公(光明皇后の父、不比等)真跡屏風帳・・3年後の天平宝字2年10月献納
一方で、
除物
逆に、献納後、「除物」とされたものがありました。
瀧浪先生のお話は、ここからが……
「除物」とは、一度献納した品を目録から「始めからなかったもの」として除かれたもので、光明皇太后の手元に戻したものです。以下の7点。
- 信幣之物(しんぺいのもの)
- 犀角匳(さいかくのれん)
- 陽宝剣(ようほうけん)
- 陰宝剣(いんほうけん)
- 横刀(よこがたな)
- 黒作懸佩刀(くろづくりのかけのはいとう)
- 挂甲(けいこう)
瀧浪先生は、6.の「黒作懸佩刀」について、東大寺要録の記述から草壁皇子が、太政大臣(藤原不比等)の功に報いるため、藤原不比等に下賜したもので、その後、文武天皇の即位の時に、文武天皇に献じ、文武天皇御崩御の際に、再び不比等に下賜され、不比等が薨ずる時に太上天皇(聖武天皇)に献上された、とする、言わば、藤原家が預かるような佩刀であると。そして、その佩刀は、男性の天皇にのみに保持が許される刀であると指摘。
そのため、一旦、光明皇太后が手元に戻したのではないか、と仰っていました(推論ですがと断った上で)。
聖武天皇は諡・諡号を持たない天皇⁉
天皇が薨ずると、例えば天武天皇、持統天皇のように〇〇天皇と呼ばれます。これは漢風諡号とされ、また、天武天皇は、天淳中原瀛真人天皇(あまのぬはちおきのまひとのみこと)、持統天皇は高天原広野姫天皇(たかのはらひろのひめのみこと)などとも呼ばれています。これは和風諡号です。
ところが、聖武天皇は、『続日本紀』(天平勝宝八歳(756年)5月11日条)の記述に「・・太上天皇は、出家して仏に帰したまう。さらに諡を奉らず。・・」と、あるのように、出家したため、諡号は無かったそうです。
しかし、後に、
- 聖武天皇が生前に大仏造立の際、大仏の鋳造はほぼ終わっていましたが、仕上げの大仏の鍍金(めっき)に用いる金が無く苦慮していたが、「天、至心の信に感じてついに勝宝の金を出」したと、東国(下野国、陸奥国など)で、金が産出された。
- また、賊臣(橘奈良麻呂)らが謀反を企てたが、武威を恐れて屈服してしまった。このため、「聖武の徳、古に比ぶるに余り有り」として、その大業を顕彰し、古典にのっとり尊号を追贈したいと思う。
- 「勝宝感神聖武皇帝」と尊称し、諱(いみな)は、「天璽国押開豊桜尊(あめのしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)と申し上げる。尊号を万代に伝えすぐれた事績を永遠に発揚したい。
(『 続日本紀』天平宝字2年(758年)8月9日条)として、今日、我々が知り得る「聖武天皇」と言う名になったそうです。知りませんでした。
除物その後
また、戻った「除物」はどうなったのでしようか?
実は、「除物」のその後の所在は不明とのことですが、一旦、光明皇太后の手元に戻った「黒作懸佩刀」だけは、舎人親王の子(天武天皇の孫)大炊王の手に渡ったのではないか、と。
そして、光明皇太后は「女性天皇の御代は、世が乱れる」と考えていたのではないか、実際、謀反の企てもありました。そのため天皇の血筋を有する大炊王(後の淳仁天皇)に草壁皇子の佩刀を託したのでは、とも瀧浪先生は仰っていました。
陽宝剣と陰宝剣
また、除物とされたもので所在不明とされた中に陽宝剣と陰宝剣の二振りの大刀がありましたが、驚くべきことに、なんと、1250年後の明治40年(1907年)〜明治41年(1908年)にかけて行われた東大寺大仏殿改修の際に、大仏の足元の須弥壇周辺から「鎮壇具」として大刀二振りが出土。さらにそれから100年後の平成22年(2010年)、X線による調査・解析で、前述の天平宝字3年(759年)12月に、東大寺献物帳(国家珍宝帳)で「除物」とされた「陽宝剣(ようほうけん)」と「陰宝剣(いんほうけん)」であることが判明しました。
以前、大和文化会の東野浩之先生のご講演で聴講しました。
しかし、なぜ「除物」となったなのか、は依然としてわからないとされてきました。
今回の講演で、瀧波先生は、
「先の「黒作懸佩刀」同様、大炊王淳仁天皇に与えるつもりで手元に一旦戻したのではないか、しかし、それは叶わず、娘の孝謙天皇の治世の安泰を祈って、東大寺の盧遮那仏の足元に再び奉献したのではないか、私は、そう思っています。そこには、母としての想いが込められていたのです。」
と、講演を締めくくりました。これが瀧浪先生の仰っしゃりたかったことなのでしょう。
なお、陽宝剣、陰宝剣については、こちらの記事を
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いつもの余談
※講演の内容ではありません。
この光明子という別称について、松本清張は、長編小説『眩人』の註釈で、
『元亨釈書』の「皇后光明子」伝には、光明子の容姿について、「容姿は、ことのほか美しく光り輝いてみえたので、光明子と付けられた」というのだが、俗説にすぎない。
と一蹴しています。
※『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)は鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師錬。1322年に成立。
続けて、
しかし、藤原安宿媛が光明子となった経緯はよくわからない。史書にもその説明がない。学者も「光明子」の訓みに当惑してか、振ガナを付けるところがない。光明子の妹は多比能(たひの、橘諸兄の妻)で、和名らしくなっている。金光明最勝王経は妙法蓮華経とともに当時の宮廷でもっとも読誦・転読・写経されたもので、玄眩が金光明最勝王経から「光明」を捉んで光明子の名を皇后に献じたというのは筆者の推測である。
と、松本清張氏は推測としながらもこのように解説しています。今でもこの命名の経緯はわからないのでしょうか。講師の瀧波先生もこの点については、言及されませんでしたので、清張氏の推測が当たっているかは、自分にはわかりません。とにかく容姿端麗だったことは間違いないようです
小説の舞台に
話は少し横道にそれますが、奈良の「法華寺」といえば、松本清張の長編推理小説『火の路』で、奈良の旅館に宿泊していた主人公の女性(国立T大助手で日本古代史を研究)が傷害事件の現場に遭遇、被害者(実は……)を助ける場面がありました。清張氏は、その旅館は、寺(法華寺)の西側の町中にある、と描写しています。
以前撮った写真ですが、付近はこんな雰囲気なのでしようか。
法華寺近辺
とにかく、藤原不比等の邸宅は広かったようです。
前掲の松本清張の長編小説『眩人』で、藤原不比等の邸宅について、
この邸宅は京城(奈良京)左京の東西を通じる一条南大路、それに南北を縦に通じる一坊大路の交差する地区の半分を占め、その敷地の広さは、四町ほどもあった。この国の法令でその官位にしたがって邸地を決められたいたが、不比等は右丞相(右大臣)の最高位にあったからこの最大の広さを獲得できたのである。
その宅地は北の丘陵の斜面にあって、西は宮殿(平城宮)の東大垣に近かった。大垣は高い土壁で築かれている。東大垣と東一坊大路との間は、東北の丘陵地帯から出る川(佐保川)で濠がつくられていた。
※一町は、一坪ともいう。一町は、約117メートル平方。(『眩人』の清張氏の注)
と、描写しています。
生き生きとした描写で、邸宅の広さがわかります。そこが、後に宮寺→法華寺=法華罪障消滅之寺となったのです。
一応のまとめ
聴講報告が、ついつい長文になってしまいました。手元のメモを頼りになんとかまとめました(バラバラかも)。
今回の講演は、講師の瀧浪先生の聖武天皇、光明皇后への想いが伝わってきた講演でした。
以前、夏のスクーリングの帰りに、法華寺に行きましたが、あいにく拝観時間を過ぎており、門前のみ写真を撮っただけでした。この記事の写真はその時のものです。古くてすみません。お許しを…
瀧浪貞子先生の著書
参考にした書籍