心の空のまちから

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粕壁宿を歩く方必見!必ず訪れたい古刹「最勝院」(後編)

目次

…前編からの続き 

岩槻の慈恩寺

前掲の『新編武蔵風土記稿』の記述にある慈恩寺とは、「華林山最上院慈恩寺という天台宗の寺院で、お隣の、さいたま市岩槻区の慈恩寺(地名になっていいます)にあります。

岩槻の慈恩寺は、天長年間(824年 - 834年)円仁(慈覚大師)の開山によって創建されたと伝えられています。

天正18年(1590)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591)に寺領を寄進され、江戸時代には江戸幕府のほか岩槻城主の帰依も得たとされています。

また、戦前の日中戦争時の昭和17年(1942)12月に日本軍が南京で発見した三蔵法師玄奘の遺骨の一部が、終戦後にこの寺に奉安され、その後、昭和28年(1953)5月に落慶した十三重の花崗岩の石組みによる霊骨塔・「玄奘塔」があることでも知られています。

また、昭和30年(1955)に日台友好のため、台湾に分骨され、現在は日月潭玄奘寺に奉安されているとのこと。

さらに昭和56年(1981)には、玄奘の属する法相宗奈良・薬師寺にも分骨されており、現在は薬師寺境内の玄奘三蔵に奉安されています。

そして、『新編武蔵風土記稿』の記述の通り、岩槻の慈恩寺の僧奝尊が“かすかべの最勝院”を創建し、その際、山号・寺号は岩槻の慈恩寺そのまま受け継ぎ、「華林山慈恩寺」とし、院号は岩槻の慈恩寺院号最上院)に憚って(遠慮して)「最勝院」として、通称にしたようです。

しかし、岩槻の慈恩寺側では、この経緯を知らないと言っています。一体何があったのでしようか?

郷土史家の須賀芳郎氏は、この辺の経緯を

最勝院は、現在地に設置されたのは、平安時代と思考される。

最初は、この地に紀氏朝臣の子孫である、兵三武者紀氏實直【さねなお】の四男の左衛門尉【さえもんのじょう】實高【さねたか】が、在地名、春日部を名乗り春日部氏となった時、春日部氏の学問の師として迎えたのが、慈恩寺別当奝尊僧正であった。初めは寺と言うより学問所の庵として設置されたと推定される。後に慈恩寺から、弘法大師作の『千手観音菩薩像』を移され、ここに寺を開いたもので、寺号も本寺の名称『華林山最勝院慈恩寺』と唱えたが、本寺と紛らわしくなるので、院号と寺号を入れ替えて『華林山慈恩寺最勝院』と称したと伝えられている。
元は天台宗であったが、『玉藏院』の先々代の児島隆傳和尚より聞かせられたところによると、江戸時代になって、新義真言宗智山派の本寺が江戸に建立されて、江戸付近の主要な町に、学僧を派遣して真言問答』を展開し、宗派の拡大の布教を始めて「問答」に負けた寺は、その場で転派させられた時代があり、粕壁宿内の主たる寺は、新義真言宗智山派に隷属したのだと言われている。最勝院は粕壁宿近在の寺院の本寺であったので、それぞれの末寺も本寺に倣って転派されたと聞かされている。 

引用:『春日部の寺院』須賀芳郎著、1996年

と書いています。

当初は別院?

つまり、当初は、別院(学問所)として創建され、のちにご本尊の「千手観音菩薩像」(伝弘法大師作)が移され、正式な寺院となったと考えられます。

また、山号・寺号の順序が案内板と違うような気がしますが?

本寺を憚ったということですので、『新編武蔵国風土記稿』や須賀氏の表記「華林山慈恩寺最勝院」がやはり正しいのではないかと思います。

そうなると、門前の案内板の表記は???

 

なお、『寺の宝』は、三代将軍、徳川家光より十五代将軍徳川慶喜までの寺領十五石の御朱印状とのこと。

 

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最勝院の境内

お寺の境内に鳥居が、、、。

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境内にある鳥居

この先には何があるのでしょうか??

それは別稿で、、。

 

*1

*1:備考:本記事は、当初2019年3月26日にエントリーしたものですが、リライトし前後編に分けて2021年5月28日に再エントリーしました。

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