かすかべ時遊帳

かすかびあんの時遊で気ままなブログです。

水塚について(2)・かすかべに残る「水塚」

ブログ更新を再開します…

 

かすかべにも水塚は現存しています。今回は、かすかべの水塚のことを…

その前に、まずは、

かすかべの地形

埼玉県東部は、縄文時代のいわゆる縄文海進で海の中だったこともあり、もともと低湿地の土地なのです。

度重なる河川の氾濫による土砂の堆積がやがて自然堤防となり、微高地が形成され、その上に“かすかべ”はできました。

春日部市の地形は、西側に大宮台地が、東側には下総台地が所在している。この両台地には、沖積地である中川低地が広がっている。両側に台地があり、中央がくぼむ市域の地形は、東西の断面形態が皿状になっている。このような地形は、ひとたび大雨や台風に襲われると洪水を引き起こし、大水害になりやすいといえる。かつて、利根川や渡良瀬川の本流が当地を流れていたのもこの地形による影響である。

ー以下略ー

引用:『春日部市史/庄和地域/近代・現代』第六編/現代/第一章/第三節江戸川改修と宝珠花の移転/コラム「地形と水塚」

水塚の分布

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春日部市の地形と水塚の分布
(平成25年1日1日現在)

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春日部市の市域

市内の水塚は、古利根川左岸に広がる中川低地の自然堤防および後背湿地に数多く分布する。なかでも、庄内古川(中川)と江戸川に挟まれた低地(庄和地域)には、多くの水塚が集中する。その数は299基で、現存する水塚が217基、消滅した水塚が82基、水塚の可能性がある場所か40か所ある。

引用:前掲書

なお、庄和地域は旧庄和町域を指し、平成17年(2005)10月1日、北葛飾郡庄和町と春日部市は新設合併し、現在の春日部市となりました。

そして、分布図で分かるように、市域東部に水塚が多く分布するのは、地形が大きく関係しているからといわれています。

市域は、大宮台地と下総台地の間が最も狭くなっており、河川や低地の広がりが北西から南方面へ転換する地域となっている。そのため、各河川の上流部であふれ出た水は、北西方向から地形に沿って洪水が集中して襲ってくる。そして下総台地にぶつかった洪水が南方向へ転換し、庄和地域一帯に広がっていく。このことから、他市町よりも多くの水塚が築かれたのだろう。

引用:前掲書

かすかべの水塚は、古利根川左岸に広がるいわゆる中川低地の自然堤防及びその後背地に多く分布しています。そして、前述の通り、とりわけ中川(庄内古川)と江戸川に挟まれた低地には、多くの水塚があることがわかります。この地域は、水田地帯に島嶼状に居宅を構える、いわゆる「散居集落」の特徴を色濃く残しています。そして、この中には、近世にまで遡る各戸が集落を展開しています。加えて、この一帯は、自然堤防と沖積地との比高差が乏しく、そのため、比較的高位な水塚が築かれる傾向にあります。

なお、「散居集落」とは、主に平場の農業集落にみられる形態で、家と家との間に広く田畑が入っている状態の農業集落のことです。

 

かすかべに残る「水塚」

水塚は、なにしろ個人のお宅なので、無断で写真を撮ることはできません。当然、所在地もわかりません。

という訳で、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7)から写真と解説をお借りしました。

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水角の水塚(撮影は平成24年とのこと)

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水角の水塚の屋敷配置図

水角は旧庄和町地域の地名。屋敷はイケ(池)と呼ばれる横堀が巡り、現存する水塚は屋敷内の主屋を囲むように南西―北―北東にかけて土積みされ南東方向が開口し、石階段が設けられている。高さは約1.6mである。塚上には、離れや蔵が現存している。離れの棟札には文久4年(1864)の銘があることにから、主屋はそれ以上遡ると推測される。水塚上の蔵には、昭和22年の大水で使用した舟が2艘現存している。

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倉常の水塚

土盛りをして築造された水塚が現存しており、主屋に対して北西の位置に築かれている。高さ約2m、塚上幅9.2mを測る。蔵は4.25間×2間の2階建で主に米蔵とし、味噌や醤油も保管していた。主屋は明治初期の建築で、水塚も同時期に築造されたと推測される。昭和22年の大水では土間まで水位が押し寄せてきたが、主屋での生活は支障がなかったといわれる。舟は現在、蔵の内部で保管されており、良好な状態を保つている。なお、主屋は国登録有形文化財である。

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不動院野の水塚

水塚は、現存しており、敷地北、西側を開削した構之堀の排土を利用したと伝承され、その周囲は石積みにより固めている。水塚は主屋の南西に位置し、高さ約1.5m、塚上幅10.7を測る。蔵は4間×2間の2階建である。主に米蔵とし、味噌や醤油も保管していた。水塚の建築年代は不明だが、主屋(明治元年築)と同年代と推定される。長さ3間半の舟は、昭和22年の大水の時に3回使用され、以後の台風でも子供の通学時に用いた。現在は納屋裏に保管されており、良好な状態にある。

そういえば、牛島の藤で知られる「藤花園」の一角に小高いところがあったことを思い出しました。「藤花園」は明治時代初期までは「蓮花院」というお寺だったので、よくわかりませんが、牛島(ウシジマ)という地名は川荒れの「浮島」からきているともいわれていますので、もしかしたら「水塚」の名残りかもしれません(あくまでも想像ですが)。

 

消滅の危機?

近年、水塚が残るお宅で、主屋などの改築の際に水塚を崩して平坦にするなど、かすかべの水塚も徐々に減ってきているといわれています。

また、今回の台風19号の大水に対し、地下神殿といわれる「首都圏外郭放水路」などの治水対策が功を奏し、東部地域のみならず首都東京をも守ったといわれています。

実際、かすかべを流れる大落古利根川や古隅田川の水位は少し上がった程度でした。このような治水対策やダムの建設により、昔のような洪水等の被害は軽減しています。そのため「水塚」はその役割を終え、最早「消滅の危機」という声もあるようです。

しかし、自然は甘くない

11月始めの三連休に利根川を見る機会がありました。その際、広い利根川の河川敷を見ると、土砂で一面茶色くなっていました。かなりの高さまで水位が上昇したことが伺えます。やはり自然を甘く見てはいけませんね。今後いつ何時、同じ、いや、それ以上の水害はあるかも知れません。

 

たとえ、この地域の「水塚」は減っても、その防災に対する考え方は、何らかの形で受け継いでいく必要はあると思います。

 

続く…

 

 

ブログがまるごと無断転載されたかもしれません!

何時も「かすかべ時遊帳」をお読み頂き、ありがとうございます。

さて、今般、下記URLによる 「 かすかべ時遊帳」なるブログサイトが存在することが判明いたしました。

記事を見ると全く同じ記事が出てきます。文章も画像も同じで、丸ごと無断転載の可能性大です。

 

www.tutorialses.appspot.com

 

この無断転載したと思われるサイトは、私、風天のタケジイの運営する、当「かすかべ時遊帳」とは、一切関係ございません。お間違えのないようご注意ください。

絶対にクリックしないでください!!

なお、クリックの結果、生じたいかなる損害に対しても当方は責任を負いかねます。

 

この問題が発覚後、直ちに、はてなブログ様にご報告させて頂き、以後の対処法をご相談しています。

 

つきましては、この問題が解決するまでの間、ブログ「かすかべ時遊帳」の更新は、一時休止とさせて頂きますのでご了承ください。なお、問題解決後には速やかに再開する予定です。

 

皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくご理解の程お願い申し上げます。

 

 

※本記事は、問題発覚後の11月9日夜、緊急にアップしましたが、感情的?に書いたため、一旦下書きに戻しました。

その後、気持ちが少し落ち着きましたので、一部表現を変え、リライトして再度アップします。 

なお、11月18日現在、無断転載したサイトは、検索されなくなっています。視界から消えました。でも無断転載した記事は消えてはいないんでしょうね。残念ですが。

                      

 

水塚について(1)・生命と財産を守る先人の知恵

4年前

4年前の平成27年(2015)9月に、台風17・18号の影響で「平成27年9月関東・東北豪雨」と言われた豪雨災害が発生しました。

特に茨城県常総市付近では鬼怒川の堤防が決壊し、常総市役所の本庁舎まで水に浸かるなど多くの家屋が全半壊する甚大な災害でした。車で近くを通る時に、いつも思い出しています。

今年(令和元年)も

そして、今回の台風15号と19号の予想を超えた広範囲にわたる大雨による浸水被害。残念なことに、多くの尊い命が失われました。心からお悔やみ申し上げます。

ところで、「水塚という避難施設をご存知でしようか?

水塚とは?

「水塚って? と思われる方も多分多いのではないでしょうか。

「水塚(みづか、みつか、みずか、みずつか)」は、洪水の際に避難する盛り土で嵩上げした水害時の私設の避難施設です。敷地の一部を1~3㍍程度、場所によっては5㍍の高さに土盛りし、河川の氾濫(はんらん)時には水没せず、押し寄せる水から母屋を守るために築いたといわれています。台上の広さは50平方㍍程度で、災害時の食料備蓄用に蔵などを建てました。

また、関東の利根川、荒川中・下流域では「水塚」、淀川下流では「段蔵」、信濃川下流では「水倉」、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)や筑後川下流では水屋(みずや)と呼ばれています。

そういえば、木曽三川の下流の河口部には、「輪中(わじゅう)」とよばれる土地がありましたね。昔、授業で習いました。「輪中」は洪水から村を守るために、周りを堤防に造って囲んだ土地のことで、輪中に住む人々は、昔から堤防を造ったり洪水の時に助け合ったりしてみんなで協力してきたのです。その「輪中」にもこの「水屋」がありました。

巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」をみて

4年前の平成27年、宮代町郷土資料館で「水塚」に関する巡回展を拝観しました。その直後、前述の「平成27年9月関東・東北豪雨」が起きました。堤防が決壊し、集落が水に浸かる様子がテレビのニュースで流れ、今更ながら自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。そして、今回の台風19号による洪水被害です。

巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」のことは、こちら

↓↓

平成27年度巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」開催しました。 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

引用ばかりで恐縮ですが、

巡回展の資料をまとめた『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7)によると、

埼玉県東部地域の歴史地理的概観
行田市から三郷市に至る埼玉県東部地域は、その大半が加須低地、中川低地といった沖積平野に立地する。低地の標高は、北部の羽生市・加須市で10〜13㍍ほど、南部の八潮市・三郷市付近では1〜4㍍ほどである。勾配は平均0.2%ほどということになる。低地を取り巻く台地部に立地する市町でもその標高は20㍍にとどまる。
こうした低地は、完新世への移行とともに渡良瀬川や思川水系の河川が、大渓谷を埋めながら奔放に蛇行を繰り返して南流することで形成された。やがて関東盆地運動とともに、この流域に利根川が流入することで、遅くとも中世期には、現在の様子に近い低地が完成されたとみることができる。坂東太郎「利根川」が時に荒れ狂いつつも、多くの恵みをもたらしながら「江戸湾」に注いでいた時代である。
近世初期、江戸幕府が開かれると、徳川政権は江戸の町を水害から守るとともに、水田や舟運の便を確保するために利根川の東遷、荒川の西遷に着手する。特に、利根川東遷事業は、当地域と密接な関係を持っている。
幾多の難工事と多くの犠牲を繰り返しながら17世紀の後半には、この歴史的土木工事は成就する。
「治水」は、古くから領主階層のための重要なボイントであったといってよいであろう。中でも、利根川の東遷と荒川の西遷は事業規模、その成果などの点から見て最も重要かつ完成度の高い事業であった。
流路変更 がなされたとはいえ、古利根川、倉松川、中川、大場川、綾瀬川などの河川が、相変わらず氾濫を繰り返していたことは想像に難くない。そうした地理的特徴も手伝って、加須低地から中川低地には、大小多数の河川後背湿地が残された。同時に氾濫土は自然堤防となって微高地を形成することとなる。近世村落は、こうした河川自然堤防などの微高地上に発達する傾向を示す。そして村落周辺の後背湿地を水田として開発し、耕地と密着した暮らしが続けられてきた。
微高地上の集落は、大水が出ると浸水被害をまぬがれない。こうした被害を軽減するための知恵の1つとして築かれたのが「水塚」であった。
以下略
引用:『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7) 

確かに、水は豊穣の恵みをもたらす反面、大事な命、財産を奪っていくものだったのです。そのため、農家の皆さんは、各自で敷地の一部に盛り土し、蔵を建てて水害に備えたのです。それが「水塚」なのです。

埼玉県東部地域の北は行田市や加須市から南は八潮市、三郷市の地域には、今でも約1220基以上ほどの水塚が残っているそうです。

水塚の歴史は、江戸時代の「日光道中絵図」にも描かれているように、江戸時代にさかのぼります。明治時代に最も多く造られました。

また、昭和22年の「カスカスリーン台風」の後にも水塚が設けられ、10基ほどが確認されてるとのこと。さらに平成期に築造された水塚もあるそうです。

治水対策整備が進んだ現代も先人たちが残した出水に対する警戒意識は引き継がれているかもしれません。

その一方、「無用の長物」として主屋の改築などに伴い消滅する水塚も年々増え続けているそうで、いずれ消滅する日が来るかもしれません。

奈良盆地にも

以前、通信教育の大学のスクーリング科目「歴史地理学」で奈良盆地をバスで通った際、奈良盆地は溜池が多いので、水の災害を防ぐため、集落ごとに盛り土をして水害から守っていると、担当教授から解説がありました。

私も、「関東の荒川・利根川流域にも水塚と言うものがあります」と話したことを思い出しました。

 天皇陛下も皇太子時代にご講演で…

折しも、10月23日(水)の毎日新聞(東京朝刊)には、新天皇の「即位礼正殿の儀」に因んて、こんな記事(余録・コラム)がありました。

余録:「水塚」とはその昔、利根川の洪水に備えて… - 毎日新聞

記事抜粋

「水塚(みづか)」とはその昔、利根川の洪水に備えて避難のために作られた盛り土をいう。天皇陛下は皇太子時代にトルコのイスタンブールで開かれた世界水フォーラムの基調講演で流域住民の水害との闘いを紹介した▲江戸時代、ひんぱんに洪水にみまわれた流域ではこの盛り土に倉を建て、食料や布団、揚舟(あげぶね)と呼ばれる小舟などを備蓄した。そこは水塚を持たぬ近隣住民や牛馬の避難所ともなった。地道な努力と知恵が刻まれた水と人との歴史である▲講演で陛下は気候変動による水害の激化にも言及した。きのう予定していた祝賀パレードを政府は水害対策のために延期したが、陛下の意にもかなう決定に違いない。

以下略

天皇陛下が皇太子時代に国連で講演した映像は、今回もテレビで視ましたが、「水塚」のことを仰っていたとは知りませんでした。

 利根川流域の水塚・久喜市

利根川流域に在る県内東部地域の各自治体のホームページには「水塚」のことが書かれているサイトがあります。残念ながら春日部市にはそのようなサイトはありません。

久喜市のサイトでは、
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久喜市指定文化財「吉田家水塚」

出展:久喜市文化財課ホームページ

https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/kenzobutsu/yoshidakemitsuka.html

久喜市では、旧栗橋宿にあった商家の水塚が「栗橋文化会館」敷地内に、平成24年に移築・復元され一般公開されています。

塚の幅は約22㍍、奥行きは約14㍍、高さは約2㍍あり、塚の周囲は大谷石が積まれている。 

建物として蔵が2棟あり、大蔵と向う蔵と呼ばれている。大蔵は江戸末期、向う蔵は明治37年に建てられたものである。解体時の調査で、両蔵とも基礎は蝋燭石(ろうそくいし)を用いた蝋燭地業であることが判明した。この蝋燭石の周りには粘土や砂利等を付き固めた痕跡が確認された。

階段の段数は13段であるが、カスリーン台風時には2段を残して水が来たといい、家族や親戚、近所の人など20人ぐらいが避難したという。

商家の水塚のため、食料などの他には、店で扱っていた商品も保管されていた。

引用:『埼葛・北埼玉の水塚/久喜市の概要』(東部地区文化財担当者会報告書第7) 

表面の地盤が悪い場合で、しかも良質な地盤までが浅いときは、蝋燭状の石材をたてて基礎を支持させることがある。この時の石を「蝋燭石」と呼び、こうした地盤改良を「蝋燭地業(ろうそくじぎよう)」といいます。

そして、カスリーン台風で堤防が決壊したときは、約20人がここに何日も避難したと書かれています。「私設の避難所」という役割もあったのですね。

詳細は、こちら

↓↓

市指定 吉田家水塚:久喜市ホームページ

 

まとめ

今回の台風被害の様子をテレビの映像で視て、ふと「水塚」のことを思い出しました。テレビの映像なので、はっきりとはわかりませんが、破堤した堤防と同じか、もしかしたらそれより低いと思われる土地に建物が建っています。4年前の光景と変わりません。そして、人間が造った立派な堤防も自然の猛威の前には無力なんだ、と今更ながら実感しました。

それでは、明治43年の水害、昭和22年のカスリーン台風など、度重なる水害に先人たちは、どのようにして生命や財産を守ってきたのでしょうか、「水害は毎年のように起こった」と明治時代の『埼玉県水害史』にも書かれています。

 

そこで、「何かが学べるかも」と思い「水塚」のことを調べてみることにしました。

 

ということで、このテーマで何回か記事を書いてみます。どうぞ、お付き合いください。

 

被災された地域が一日も早く以前の生活に戻れることを、祈りつつ…

 

続く…

 

しんちゃんコーナーがニューバージョンになったゾ&13人目のかすかべ親善大使はザキヤマさんだゾ‼

 しんちゃんコーナーがニューバージョンに…

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久しぶりに「サトーココノカドー」(イトーヨーカドー春日部店)に行きました。3階にある「しんちゃんコーナー」(アニメだ!埼玉発信スタジオ)を覗くと写真コーナーが変わっていました。秋バージョンなのでしようか?

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いらっしゃいませ!

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13人目のかすかべ親善大使はザキヤマさん

かすかべをアピールする「かすかべ親善大使」に、お笑いコンビ「アンタッチャブル」の「ザキヤマ」こと山崎弘也さん(43)が10月に就任しました。

今春の「はなわさん」に続いて13人目の親善大使就任で任期は3年間とのこと。山崎さんはテレビでよく見かけますね。山崎さんは「ザキヤマ」と呼ばれて親しまれています。
山崎さんは市内の小中学校から「県立春日部工高」を卒業されたとのこと。"かすかべ”出身の芸人さんなのですね。
そういえば、以前(平成25年2月18日)に放送された「おじゃマップ」(フジテレビ系列)で、母校の春日部工高を訪問した際の映像を思い出しました。
アニメの「クレヨンしんちゃん」にも本人役で声優としてゲスト出演したこともあるそうです。
なお、10月5日に委嘱式が行なわれ、欠席された山崎さんは映像にて「春日部のことをいろんな人に伝えて、日本の首都にしようくらいの計画を私は持っています」などとコメントを寄せたそうです。日本の首都ですか、いいですね!

今後の発信力に期待しましよう!来年のいろんなイベントで会えると嬉しいですね。

 

委嘱式については、こちらを
かすかべ親善大使委嘱式の様子 春日部市

 

 

 

カスリーン(キャスリン)台風とかすかべ

度重なる降雨災害

今年も残り2ヶ月余りとなりましたが、今年、令和元年も水の災害が多い年として記憶されると思います。

9月には、大型の台風15号、そして、10月にはさらに大型の台風19号と、各地で甚大な被害をもたらしました。被害に遭われた皆様には心からお見舞い申し上げます。

特に台風19号は、昭和33年(1958)に発生した「狩野川台風」並みと言われていましたが、大雨による洪水被害は想像をはるかに超え、東日本の各地に及び多くの方の尊い命が失われました。そして追い打ちをかけるような大雨。

今更ながら、自然災害は人智も超えることを思い知らさせられました。

歴史に学ぶ

そして、今回、改めて「歴史に学ぶ」という危機管理の基本姿勢の必要性を感じました。

自分が住んでいる所は、地形も含めて「昔はどうだったのだろうか?」、「何時、何処でどのような災害があったのか?」などを調べてみることにしました。

と言うことで、地域の災害について記事を書くことにしました。 

まずは、かすかべの水にまつわる災害の歴史から、

カスリーン(キャスリン)台風

埼玉県東部の利根川流域で忘れてならないのは、今から72年前、戦後も間もない、昭和22年(1947)9月に発生した「カスリーン台風」による大水害です。もちろんリアルタイムには知りません。

「春日部市史」では「キャスリン台風」と表記されていますが、以下は「カスリーン台風」の表記で。

「国土交通省関東地方整備局」のホームページでは

昭和22年9月のカスリーン台風は、15日に駿河湾の南方沖を通過、さらに房総半島の南部を横切りました。台風が接近する以前に、本州には停滞した前線が13日から大雨をもらたし、台風の影響と重なり、特に南東に面した山岳斜面では300~500m/mにも及ぶ降雨量を記録しました。

さらに、

台風そのものは本州に近づいた時、既に勢力を弱めつつあり、進路も関東地方の太平洋岸をかすめただけだったので、強風による被害はあまり出ませんでした。しかし、台風の接近に先立って、日本列島付近には秋雨前線が停滞しており、そこに台風の湿った空気が入り込んだため前線が活発化。これにより豪雨がもたらされたと考えられています。

被害は、死者は1100人、負傷者2420人、浸水家屋は床上・床下を含め33万戸以上に及び、戦後治水史上に残る大雨災害となりました。そして、今でも台風本体の勢力の割には降水量の多い雨台風の典型例として歴史に刻まれています。

「カスリーン台風」の詳細については、「国土交通省関東整備局」のホームページをご覧ください。

カスリーン台風の被害 | 河川 | 国土交通省 関東地方整備局

写真はこちらをどうぞ。

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栗橋町・大利根町付近の航空写真
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埼玉県東部の航空写真
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埼玉県東部の航空写真

出典:関東地方整備局ホームページhttp://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00189.html

写真の詳細は、

写真でみるカスリーン台風 | 利根川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

お隣の宮代町の公式ホームページには、

昭和22年のカスリーン台風と宮代町 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

雨台風

令和元年の今年の台風19号も大型で雨に加えて風が強いと報道されていましたが、実際は、想像をはるか超える雨台風で大雨による洪水被害が大きくなりました。同じ雨台風の「カスリーン台風」と似ています。

また、「狩野川台風」並みとも言われていましたが、加えて「カスリーン台風」にも触れて頂くと、より危機感を持って情報が伝わったかもしれません(お年寄りにも)。

かすかべでは…

春日部市の公式ホームページにはカスリーン(キャスリン)台風の記事は何故か見当たりませんでしたが、こちらのサイトには、春日部の様子が春日部市史(通史編Ⅱ)をもとに詳しく書かれています。

【春日部市史】キャスリン台風災害 │ カスカベのニュース

郷土史家の須賀芳郎氏は、

ー略―
災害で思い出されることは、昭和二十二年九月の関東地方の大水害である。第二次世界大戦終了後二年目、二百十日も無事に過ぎてみのりの秋を楽しみにしていた折柄、九月十四、十五の両日に猛烈な台風(キャスリン台風という)が襲来した。山間部の雨量が六〇〇ミリメートルを超す雨台風であった。
建築中の春日部中学校が倒壊したが、市内には予想するほどの被害はなかった。住民はこの台風による被害がこれ以上ないように祈る気持ちであったが、無情にも、十五日夜半のラジオ放送は利根川堤防の決潰(けつかい)を急報したのである。
市内の河川、溝等も前夜来の豪雨のため増水していた。幸い十六日は晴天となり、天候は一安心であったが、利根川の決潰による洪水に一抹の不安があった。

ふるさと春日部『かすかべの歴史余話・昭和22年の大水害』須賀芳郎/著 1977年~

と、書いています。

実際、「カスリーン台風」による大洪水の発端となったのは、当時の埼玉県北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市の大利根地域・北東部)での利根川堤防の破堤・決壊です。

この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ばれる直線河道であり、「明治43年の大水害」の時には破堤・決壊しなかったため、比較的楽観視されていた場所でした。要するに「まさか」、「想定外」だったのでしょうね。

さらに、須賀芳郎氏は、

この水害はあまりにも急激に襲ってきたことと湛水期間が長かったことにより、農作物はもちろん住民の日常生活への影響も大きかった。丁度稲の刈り取り前でもあり被害は甚大で、農家はこの年の供出米については非常に苦しい思いをしいられた。古老の話によると、明治四十三年の洪水は荒川決潰による被害であったが、今回の水害はそれよりも大きかった。これは意表を突かれたためと、洪水の源が利根川にあったことが大きな要因となったためで、明治四十三年の経験より判断して対応した計画もあまり効果をあらわすことができなかったという。

ふるさと春日部『かすかべの歴史余話・昭和22年の大水害』須賀芳郎/著 1977年~

と記述しています。

なお、須賀芳郎氏は「市の職員として、災害対応にあたった」と、以前、講演会でお話されていました。実体験されているのですね。

その、明治43年(1910)8月の水害ですが、被害が東日本の1府15県にも及んだ大水害だったそうです。

明治43年の大水害

明治43年の大水害の様子を記した『埼玉県水害誌』第一編「洪水の状況」第一章「総説」には

吾埼玉縣の地勢たる甲信二州より起こり東西に長く南北に短く北は利根の大河を擁し東は江戸の巨流回らし荒川中央を貫流す西方は武甲三峰等の山脈連亘し東南北の三面は平衍曠豁沃野千里古の所謂武蔵野にして田園能く開け戸口太だ繁く産業隆昌の地たり

河川の大なるものを利根川、荒川とし権現堂、江戸、渡良瀬、谷田、入間、都幾、越邊之に亞ぎ其他細大の諸川流通し灌漑運輸の利極めて多し然れども一利あれば一害の之に伴ふは勢の免れざる所にして縣内諸川の水流は大に民庶の福利を與ふると共に洪水氾濫の災ありて田園を浸し家屋を流し身命を亡し財産を喪ふの惨狀を呈す殊に近年災害連りに臻り明治ニ十三年に於て前後無比と稱する災あり爾後漸く年所を經るに従て多きを加へ近年に至りては殆ど毎歳多少の害を蒙らざるなし就中明治四十年荒川筋の如きはニ十三年の災害よりも一層甚しかりしに今回の水災は仍一層悲惨を極めたり今其洪水の狀況を各流域に區分する左の如し

―略―

埼玉県立図書館復刻叢書(十)『明治43年埼玉県水害誌』(発行:埼玉県立図書館/編者:埼玉県/昭和62年3月15日)

この文章は、最初の頁に書かれています。漢文調なので解りづらいですが、この記述から明治時代、明治23年、同40年に大きな水害があったことがわかります。そして毎年水害があったとも書かれています。現代と変わりません。多分、江戸時代にも大規模災害は起きていたのでしよう。

また、かすかべのことは、

一大落古利根川筋南埼玉郡六號國道新町橋

八月十二日大落古利根川溢水し六號國道粕壁町幸松村入會同川架渡新町橋は午後一時俄然橋体中より切斷流失するに至る是より先粕壁町に於ては巨大なる石材を橋体に積み重ね浮流を防がんとしたるも遂に其効なく流失するに至れり減水後暫時渡船を以て交通の便に供したれども九月二十日舊橋下流部日假橋を仮設し九月三十日竣工始めて車馬往来に支障なきをえたり

埼玉県立図書館復刻叢書(十)『明治43年埼玉県水害誌』(発行:埼玉県立図書館/編者:埼玉県/昭和62年3月15日)

と記されています。新町橋が流失し下流に仮橋を設けた、と…

そして、その大水害より「カスリーン台風」の被害のほうが大きかったと言うことは、「カスリーン台風」による洪水被害は想像を絶するような甚大な被害だったと言えます。

水との闘い

このように、埼玉県の荒川や利根川の流域は、古くから河川の氾濫に悩まされてきたことがわかります。『埼玉県水害誌』にでてくる「越辺川」も今回の大雨で堤防が決壊し大きな被害が発生ました。ここの暮らす人々にとってまさに「水との闘い」の歴史と言ってもいいでしょう。

多分これからも…

記憶すること

以前訪れた「久喜市郷土資料館」(久喜市鷲宮)には、常設展示の「水と共に生きる」のコーナーとして「カスリーン台風」の様子が映像で紹介・展示されています。

久喜市郷土資料館

郷土資料館:久喜市ホームページ

天災は忘れなくてもやってくる…

よく「天災は忘れた頃にやってくる」と言われますが、水害、地震、津波、火山噴火など、またか、と思うほど、ほぼ毎年のように発生しています。天災は忘れなくてもやってきます。

そして、

以前テレビで視た、昭和31年(1956)の映画『台風騒動記』では「天災は恐ろしいが、この国では天災のあとに、もっと恐ろしいものがくる。それは人災である」と言っていました。さあ、どうでしようか。

 

続く…

 

 

 

 

 

権現堂堤に土木学会「選奨土木遺産」があった⁉️

前の記事の通り、曼珠沙華(ヒガンバナ)を見に幸手の権現堂堤に行きました。

今まで全く気がつきませんでしたが、今回新たな発見が……

土木学会「選奨土木遺産」

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権現堂堤に土木学会「選奨土木遺産」がありました。土木学会では、土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、 土木学会選奨土木遺産の認定制度を平成12年に設立されました。

権現堂川用水樋管群

名称
権現堂川用水樋管群(ごんげんどうがわようすいひかんぐん)
所在地
埼玉県/幸手市
竣工年
権現堂川用水新圦;  明治38年
巡礼樋管;  昭和8年
同取付堤防;  昭和8年
選奨年
2010年 平成22年度
選奨理由
権現堂川用水新圦(しんいり)は煉瓦造り樋管で保存状態が良い。巡礼樋管は高欄に装飾が施されており、取り付く堤防は桜の名所である。

土木学会の公式サイトはこちら 

↓↓

権現堂川用水樋管群 | 土木学会 選奨土木遺産

土木学会「選奨土木遺産」と言えば、かすかべの「めがね橋」(旧倉松落大口逆除(きゅうくらまつおとしおおくちさかよけ))を思い出します。設置時期は「めがね橋」の方が古いですが。

江戸を洪水から守る!

権現堂堤は、江戸時代には江戸を洪水から守る重要な防災施設だったと言われています。

現在の権現堂堤は、利根川の支川だった頃の権現堂川の堤防です。この堤防に、土木学会選奨土木遺産「巡礼樋管」があります。原形の創建は古く、江戸時代の天保12年(1841)とのこと。現在残っているのは昭和8年に竣工した煉瓦造りのもの。取付堤防も同年の竣工。

「巡礼樋管」は、当初、排水を目的に造られたものですが、下流の地域では農業用水に使用するため、この樋管の管理を巡り、地域住民同士の諍いが絶えなかったそうです。

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巡礼樋管の取付堤防上から

また、この「巡礼樋管」の近くには、権現堂川用水の取水口と思われる「新圦(しんいり)」と呼ばれる施設が現存し保存されています。新圦は明治38年(1918)に煉瓦造りで設置された農業用水の取り入れ口です。

これらの設備は、「権現堂川用水樋管群」(ごんげんどうがわようすいひかんぐん)として選奨土木遺産を構成しています。

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権現堂川用水新圦

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煉瓦はイギリス積み?

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中川の水門

現在流れているのは中川。現在、権現堂川は締め切られ、調整池「行幸湖(みゆきこ)」としてその名残を留めています。河川管理上は利根川です。

そして、こんなところも!

ヤギ園

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ヤギがいます!

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ヤクシマヤギ

残念ながら、今回、「巡礼樋管」が何処なのか、はっきりと確認できませんでした。次回行った時には、確認し写真を撮ってこようと思います。また報告させて頂きます。

 

権現堂堤のレッドカーペット・曼珠沙華(彼岸花)がお出迎え!

10月1日の新聞に、残暑で開花が遅れていた権現堂堤の曼珠沙華(ヒガンバナ)の花がようやく見頃になった、と出ていたので、翌日(10月2日)、「曼珠沙華祭り」に出かけました。少し早めに行ったので、駐車場はまだ空いていました。

遅くなりましたが、その時の様子を…

お待たせ曼珠沙華(彼岸花)‼

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曼珠沙華祭り

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まさにレッドカーペット

お世話をしているNPO法人「幸手権現堂堤桜堤保存会」によると、気温が下がってきたことで、ようやく見頃になったそうです。また、4年前は約350万本だったそうですが、少しづつ、球根を植え続け、今では堤の両斜面合わせて約500万本に増えたと、記事は伝えていました。

曼珠沙華は赤い絨毯と言うより、レッドカーペット。気持ちよく迎えてくれました。

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権現堂公園案内

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白い花もキレイ!

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そして、

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おもいで坂

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権現堂堤は、「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、紫陽花、曼珠沙華(彼岸花)なども植えられています。

今年は、桜、紫陽花、そして曼珠沙華と存分に楽しませてもらいました。

次は1月の「水仙」ですが、さて、どんな色を見せてくれるのでしょうか? 

今から楽しみです。

 

 

 

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